マテオによる福音 第9章 1-4 『引用 新約聖書 講談社 p.22』

それからイエズスは舟に乗って海を渡り、自分の町に来られた。すると、人々は床に寝ている中風の人を連れてきた。イエズスは彼らの信仰を見て中風の人に向かい、「子よ、信頼せよ。あなたの罪はゆるされた」と言われた。そのときある律法学士たちは心の中で、「この人は冒瀆のことばを吐いた」と思った。

新約聖書を読み、考え、残す。

そもそもイエス様がわからない。顔、身長、体重、雰囲気がわからない。イエス様は人間であり私も人間である。キリスト教では自分自身がイエスキリストと同じように考え、生き、死ぬことが目標であり、イエスキリストになることが目標である。イエス様の顔は鏡を正面に見て鏡に映った自分の顔をイエスキリストの顔だと思うことにする。体重、身長に関しても自分のものと同じとする。イエス様は男であるので男は想像しやすい。では女の人はどうしたらいいのだろうか。私はこう考える。というのがあれば教えて欲しい。女の人も同じように考えてもいいのかもしれない。イエス様の行動に性別は関係ないから聖書にイエスと出てきた場合自分に置き換えていい。性別で模範とする人を変えるのは、人種が違うから出来ないと言うのと同じ。時代が違うから出来ないと言うのと同じ。つまりイエス様はどんな姿かわからないけど、将来の自分もしくは、今の自分とするとイエス様のことを想像できる。イエス様が舟に乗るのは自分が乗ることを想像する。そして海を渡り自分の町に戻る。私の場合、新幹線に乗って実家に帰る。実家に帰るとごろごろしている。イエス様の場合は中風の人の罪を許し、癒す。実家に帰ってもごろごろせず、人を許し、求められたことを行う。中風の人は日本では見られないけど、自分を不都合にする出来事はたくさんある。実家に帰っても車の運転が荒くて危ない思いをする。そういうときに人を許す。また、実家で皿洗いや掃除などの家事をする。イエス様は自宅に帰っても人々と触れ合い、不都合を許し、仕事する。イエス様は行動の前に人々の信仰を見ている。信仰はまだわからない。人々が神様を信仰しているのを見てイエス様は行動した。その信仰は、イエス様が帰ってきたと知り、イエス様は病気の人を治せると信じ、中風の人をイエス様の前に連れてきた。イエス様が来たことを信じてできる限りのことをした結果としてイエス様が行動している。自分を人々の立場として考えると、神様をまず信じ、できる限り尽くせば神様は行動してくださる。イエス様を自分とするとどんな時に他人の望みを叶えればいいのか考えさせられる。他人が私を信じていて行動を尽くした時であること。例えば、病人を治せると信じて連れてきたとしても治せない。という事はもう少し考える必要がある。どんなに信じてもらっても私には不可能な事がある。先読みしすぎていた。イエス様は「子よ、信頼せよ。あなたの罪はゆるされた」と言った。私もこの言葉をいう事はできる。今のところはこの言葉をいっていいのか不安である。というか罪を許すのは神父様じゃないと出来ない気もする。神の名をみだりに語ってはいけない。けどイエス様になるのがキリスト教の望みだったら、イエス様のようにこの言葉を言うのがいいのか。それか、神父様しか言えないならみんながキリスト教にはなれないのか?今度神父様に聞いてみよう。ここで律法学士の立場になってみると、たしかに神でない人が罪を許すのは神を冒瀆しているように見える。イエス様は神様であるので、神様を冒瀆していない。私はイエス様であるとすれば、神を冒瀆していない。そうすると、誰であろうとキリスト教でイエスを目指している人は言っていいのかもしれない。神父様に聞いてから真似する。イエス様にできることと私にできることは違う。できることは手伝うけど、出来ない事は神様を信頼して、罪はゆるされるでしょうと神様にお願いする。できることと出来ないことを判断する智恵を私にお与えくださいと望んだ人の気持ちがわかる。